ロータリーの基礎知識 第3版
36/124

が︑北部強硬派の反対で南部占領完了迄12年を要した︒南部諸州が自分達の議会で奴隷制度廃止の法律を制定し︑実施する迄監視しようとしたが︑結局途中で諦めて放り出してしまった︒南部では思い上った黒人も出て︑白人との間にトラブルが多発したが︑北軍が取り合わなかった為︑KKK等の秘密組織が生れて黒人を私刑にかけた︒戦後の金儲けを狙った北部出身者が南部に来て︑市民と騒動を起したりしたので︑北軍進駐軍の費用ばかりが増大して︑やって行けなくなった︒の生活保障が出来ず︑プランテーションから解放された奴隷はプランテーションの小作人にならざるを得なかった︒黒人参政権は認められたが︑彼等正義の為の戦も終って見ると︑大勢の負傷者と貧困者を生み︑多くの公共物を毀した結果になったから︑もっと上手にやれば戦争をしなくても同じ奴隷制廃止が出来たのではないか︑と言うのがポールの考えである︒ポールの祖父は彼の青年時代に死んだが︑ポールとその父には遺産を与えず︑祖母の名義にした︒ポールには弁護士になる旨を遺言し︑その為の学費を与える様に祖母に頼んだ︒この時初めてポールは自分の人生について考えることになったのだろう︒ポールは真面目に勉強して弁護士資格を取ったのが23才時だったが︑直ちに仕事に就くことなく︑放浪生活に入った︒初めから5年間と決めた訳ではないだろうが︑面白おかしく暮らしている内に5年が過ぎたのだろう︒その例を少し挙げると︑こうなる︒︵1︶ポールも父祖の地イギリスを見たくなり︑家畜運送の船員になった︒イギリスからアメリカに子牛や子羊を送り︑今度は逆に肉食用の成獣を輸送するのだが︑船倉で家畜と暮らすから︑何時でも需要があった︒リバプールに着くと︑出航迄ロンドンに行って見て廻るのが楽しみだった︒︵2︶奴隷が居なくなると︑大農場の取入れ時には季節労働者が大量に必要になったが︑ポールは洪水で危く死ぬ処だったと言う︒︵3︶アメリカ経済が膨張し始めると︑各地や世界のニュースに敏感になり︑田舎でも新聞記事等を読んでローカル紙に乗せる記者が必要になった︒又経営セミナーが各地で開かれ︑種本を判り易く説明する講師の口が何処にでもあった︒*学歴も高く︑筆も弁も立つポールの様な青年は何処でも歓迎された︒,ポールは働いて金が溜ると次の旅に出て︑懐中が乏しくなると賃金をもらう手段を探した︒︵4︶最後にポールがたどりついたのが︑大理石の販売だった︒これについては後日書くが︑この分野では頭角を現し︑共同経営者にならないか︑とすすめられる程だった︒ロータリーエッセイの予定大膨張時代とポールの青春遍歴ポールがロータリーに求めたものポールへの興味メイフラワー号とハリス家の関係独立戦争前後と宗教的不寛容排除ゴールドラッシュとポールの母方祖父南北戦争と戦争絶対反対ロータリアンへの教訓シカゴでの弁護士生活ポールのミドルネームエマソンの思想とロータリーポールの性格アメリカ史の魅力−30−1891年:サンフランシスコで新聞記者、果樹園で労務者。ロスでビジネス学校の教師。1892年:コロラド州デンバー等で劇団の役者、新聞記者、カウボーイ。フロリダ州ジャクソンビルでホテルの夜勤事務員。ジョージ・クラーク経営の大理石会社の営業。1893年:ケンタッキー州ルイズビルで大理石会社の営業。英船籍バルチモア号の家畜係りとして英国へ。パークモア号で同様。ミシガン号で同様、ロンドンとサウスウェールズのスウォンシーを訪れる。ニューオーリンズでオレンジもぎ取り。再びジョージ・クラークの大理石会社の営業、ヨーロッパへ。1894年or1895年:同社のニューヨーク事務所。クラークに別れを告げシカゴに向かう。1986年始め:放浪時代終わる。GOVERNOR’SMONTHLYLETTERポール・パーシー・ハリスの放浪の旅-)+'(%&$#!"

元のページ  ../index.html#36

このブックを見る