ロータリーの基礎知識 第3版
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史が出ていると思われるがそこ迄入れ込む気がないので︑アメリカ史とポール・パーシー・ハリス伝記及び著書位の資料で書くことにする︒織作りに専念して︑第3代会長になった︒彼はやらせれば上手だったが︑リカは広過ぎるから︑担当者は大変講演や挨拶が好きではなかったと伝えられている︒アメリカ各地にロータリークラブを結成することで︑中でも中心地ニューヨークに作りたいと考えていた︒ニューヨークは︑オランダ植民地時代から市民が根付いていたので︑ロータリーの意味が理解出来ず︑第6番目のクラブになった︒シカゴロータリークラブ100年ポールは創立者だが︑3年間は組ポールが実行しようとした方針は︑ンゼルスに行くのは気が遠くなる程シカゴの次がサンフランシスコ︑オークランド︑シアトル︑ロサンゼルスの順に誕生して行ったが︑いずれも市民同士が知合っていない新興の西部都市ばかりである︒ポールは拡大を説くが︑会員は乗り気ではなく︑しばしば激論になった︒新クラブ結成と言っても︑アメである︒飛行機のない時代に︑大陸横断鉄道に乗って︑シカゴからロサである︒試みに地球儀に糸を張って測ったところ︑東京からハノイ迄がほぼ同距離である︒その間を列車に乗って︑ロータリークラブ拡大に出掛ける熱意には頭が下がる︒イギリスやアイルランドにクラブが出来た時には︑彼地の商人がサンフランシスコやシアトルに滞在して︑処を他人に施せ﹂とも言うべきキリ何度か例会に出席し︑自分の住んでいる街にも作りたいと考えた由だから︑西海岸都市も同様の形態だったのだろう︒彼が会長の時︑会員の国会議員はクラブの面前で猛烈にポールを攻撃した︒ポールは怒って反撃し︑手に持っていた物を床にたたきつけ︑即時退会を宣言した︒その場は皆のとりなしで鎮ったが︑後に八百長劇と判り︑その種の芝居は以後封印された︒ポールは放浪時代劇団に入り︑地方巡業では舞台に立ったこともあるから︑迫真の演技だったろう︒伝記にはそれだけしか書いてないが︑多分クラブ拡大を説くポールが反応の鈍い会員諸氏の態度にうんざりして︑国会議員氏に頼んで覚醒させようとした寸劇と思われる︒会員の大多数の意見はこうである︒謝の意と言う台詞を良く使うが︑ポ﹁シカゴクラブのメンバーはロータリークラブの実情に満足しているのだから︑それで充分ではないか﹂と言う点にある︒ところがポールの考えはそうではない︒﹁自分の欲するストの教えがあり︑﹁諸君がロータリーに満足しているのなら︑未だ知らない土地の人達にロータリーを教えるのが諸君の義務である﹂と言う︒孔子の﹁自らの欲せざる処を他人に施すことなかれ﹂と良く似た精神だが︑根本的に他人に接する態度が違っている︒アメリカ人は世界中に議会制民主主義と自由競争の原理を強制しており︑無用の軋轢を起している可能性もあるが︑ポールの思考の根本にもそれがある︒ポールは著書でこう書いている︒﹁ロータリーで家族会を開くのは︑夫として︑父としての自覚を促す為であり︑妻に対する夫の感謝の念を表す行事ではない﹂と︒各クラブで︑夫の日頃のロータリー活動を支えてくれる妻に対するクラブとしての感ールに言わせると︑それは誤りである︒夫が妻に対して感謝の気持を行動で伝えるのは当り前であり︑そんな夫の義務をクラブが代行する必要はない︒我々からすると︑特殊な家庭事情ポールがロータリーに求めたもの浦和ロータリー・クラブ矢作好英ロータリーエッセイ−39−GOVERNOR’SMONTHLYLETTER!

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