ロータリーの基礎知識 第3版
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間の放浪生活を送った後︑シカゴで弁護士を開業したが︑どんな仕事をしたのか︑具体的な事件は判っていない︒伝記著者はイギリス人で図書館の司書をしていた人だから︑アメリカとイギリスの弁護士制度の違いもあって︑良く知らないのだろう︒わず︑会社関係︑不動産︑相続を主に仕事としていた︑と書いている︒ポールは1896年に開業し︑RI初代会長になり引続き名誉会長に就任して︑世界中を駆け廻っていたから︑その頃は開店休業乃至は閉店に近い状態だったろう︒従って︑彼の弁護士活動は30年位と推測している︒"伝記では︑全米法律家協会役員とかの役職を記しているのみで︑我々とポール・パーシー・ハリスは5年伝記では︑刑事︑行政︑離婚は扱してはポールの弁護士生活は判断出来ないが︑中退した大学から法学博士号を贈られている︒弁護士仲間でも︑相手になってやり合って見ないと︑敵の腕前や才能は判らない︒大別すると︑弁護士成功の型は3種ある︒弁護士会の各種ポストを歴任し︑分である︒日本弁護士連合会会長になったり︑最高裁判所判事になる人︒これも一応の基準であり︑元日弁連会長が不祥事を起して刑事訴追されそうになり︑廃業を条件として不起訴にしてもらった例もあるから︑弁護士のお手本と言う訳ではない︒大事務所を構え︑大勢のサラリーマン弁護士を傭い︑多額の収入のある人︒この中から良く縄付きが出るから︑経営手腕はあるものの︑具体的事件解決が巧みかどうかは不明である︒有名事件を多く扱い︑新聞等に良く出る人︒大金をとって︑マスコミに名前を売ることだけが上手な輩も居るから︑腕利きとは限らない︒以上の大看板には該当しないが︑処理の上手な弁護士も居るし︑その他の世界で活躍する人材もある︒ポールがどの型なのか︑判断もつかないが︑ロータリーでは創始者としての評価や人間性の高邁さを見れば良いのであって︑とにかく一人前の弁護士としてやって来ただけで充ポールは目立つのが嫌いだから︑例会場でその地のロータリアンが起立拍手して迎えるスタイルは好まなかった︒黙ってメーキ■ップカードにサインし︑終了後はそのまま帰ってしまうことが良くあった︒当クラブでは︑後になってポールの来たことを知り︑大騒ぎになった︒ポールは1935年横浜に上陸し︑でシカゴの自宅に配送した︒このプ東海道線で京都に向い︑神戸から乗船した︒その機会に米山梅吉に会い︑肝胆相照す仲になった︒後に触れることになるかも知れないが︑米山はポール放浪時期にアメリカで苦学していたし︑この二人は1868年の同年生れである︒1868年は9月迄は慶応4年で︑改元されて明治元年になるから︑彼等は共に慶応年間の生れである︒ポールの生れた頃は︑日本では徳川慶喜助命問題で勝海舟が東奔西走していた時期である︒米山は青山学院大学前身である教会付属学校の配慮で︑アメリカに留学出来たこともあって︑青少年教育に関心が深かったから︑ポールとは話が合った︒ポールの執務室の机には︑米山の胸像が置いてあったと言われるから︑時々二人の共通点である広大な額をたたいて悦に入っていただろう︒彼が日本で気に入ったのは富士山で︑世界中を旅行している間︑﹁富士山に似た山があった﹂と記している︒この時日本のロータリアンが来日記念に贈ったのが石燈籠で︑船便レゼントは長くハリス邸に設置されシカゴでの弁護士生活浦和ロータリー・クラブ矢作好英ロータリーエッセイ!!#−77−GOVERNOR’SMONTHLYLETTER

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